「波乗りの歴史を知ろう」 NO.4 鎌倉物語 其の弐:開拓者(1960年代)
世界のサーフィンの長い歴史の中で1940年代から1960年代周辺の変革の波は、本当に大きかったのです。
重い木材から軽いバルサ木材を経て、人工のウレタンフォームへと移行した『サーフボード業界においての産業革命』であったし、9~12フィートの長さが当たり前だったサーフボードが短くなることで、サーフィンのパフォーマンスが変化し、ボードのアウトラインのデザインも様々に試されました。昭和の大戦終結以降「洗濯板」や「フロート」で波乗りしていた日本人たちに、横須賀にできた在日 米海軍基地を経由してサーフボードとサーフィン雑誌がもたらされました。東西のサーフィン文化が海を越えて交流したのは一瞬で、由比が浜ではちょうどその頃、板こやフロートが絶滅したようです。
鎌倉は横須賀の米海軍基地から国道134号線で最初のサーフポイントであることと、この基地に勤める日本人が多く住んでいて、地元の若者達が普通に波乗りしているなど、サーフィン文化が根付くのに充分な要素がありました。
初めて日本に上陸したサーフボードは、やはり木材の10フィートクラスだったようです。やがてフォームにグラスファイバー(現在の標準になっているプラスチック製)のロングボードがやってきました。「素潜り」や「釣り」や「ヨット」や「フロート」や「板こ」や「手ぶら(道具を使わないボディーサーフィンのこと)」など、当時の少年達の夏の遊びが、本格的なサーフィンに、そしてサーフィンビジネスの黎明につながって行くこととなった1960年代になると、逗子、由比が浜、七里ガ浜、片瀬、茅ヶ崎などでは、同時発生的にボード作りを試みる少年達が登場しました。そのほとんどの場合、お手本になったのは当時のサーフィン雑誌だったようです。
鎌倉でのボード製作の試みはいくつかのグループに別れました。フロートを参考にして、木材の中空の製法にこだわったグループもありましたが、特に卓越していたのが発泡ウレタン(フォーム)から作った材木座のグループです。現在「パイオニア・モスサーフボード」の社長であるS少年による材木座発サーフボード製作は、五所神社に程近い、牛乳屋さんのとなりの矢沢家の大きな庭の片隅にあった物置き小屋で始まりました。
この階段の上で歴史的な実験が行われていました。
サーフィン業界で日本を代表するパイオニアS少年達のその製法は、ウレタン樹脂を発泡させて、木で作った型に流して原形フォームを作り、ボードのアウトラインをシェ-プアップしてグラスファイバー加工する!というもの。それは子供の遊びの域を大きく超えていました。場所だけでなく食事を提供するなど、矢沢家の大人達もおもしろがって応援していたようです。
1965年、S少年が18才の頃のことを御本人に語ってもらいました。『高校生の時に科学部に所属していて、自作のロケットを飛ばす実験に一生懸命だった。そのロケット本体のノーズ部分の製作にグラスファイバーと、それを飛ばすための燃料としてウレタンゴムを扱うことになった。茅ヶ崎にあった「旭ファイバーグラス」の研究室や、戸塚の「日本ポリウレタン工業」に、電話でアプローチして通い、恩師を得ることに成功。そのノウハウを習得した。これはあくまでも科学部の実験のため。ロケット実験の他にはヨットで遊んでいて、辻堂でヤマハのヨットを作っていた「リンホース工業」でもFRPの勉強した。
飯島(材木座の東端の集落)に、横須賀基地に勤めていた高さんという人が住んでいた。HANSENのサーフボードを持っていて、サーフィンの雑誌を見せてもらったりした最初の情報源だった。「ソーサー」を「スキムボード」と紹介されていたのも当時のサーフィン雑誌だった。当時はこれ(ソーサー)が流行っていて、みんな自分達で板を円く切って作っていた。それに樹脂加工を頼まれることもあったし、デザインのオーダーを受けることもあった。頼まれるとペンキで、絵でもロゴマークでもお構いなく(雑誌の写真にある)そのとおりに作っていた。僕は技術を必要とされるから提供する、欲しい人がいるから作ってあげる。ただそれだけのこと。そして、円形に切った12ミリのベニヤ板にFRP加工して「CLUB」(かに)というブランド名と蟹のデザインのロゴマークを付けたオリジナルを 鎌倉の銀座通りあったスポーツ用品店に売りに行き、自分達のサーフボード作りの資金源にしていた。確か値段は数千円で、そこそこ売れた。その頃、売っていたサーフボードは2~3万円で、たぶん当時の数カ月分の給料から積み立てなければ、買えなかったと思う。
僕の最初のウレタンフォームは、バケツに樹脂と発泡材を入れて、ハンドミキサーでかき混ぜて、西洋の棺桶型に作った箱の中に、流して入れて作った。それをシェ-プしてボードの形になって、グラスファイバーと樹脂加工して、海に浮かべて、波にも乗った。ちゃんと乗れたよ。でも柔らくて、フォームがやせて剥離して水が入って壊れてしまった。ちょうどその頃、建材用のウレタンフォームの板が市場に出て、それがサーフボードに都合がよかった。棺桶型のフォームの実験はそこで終わり。その頃サーフボード工場を作ってビジネスを始めたのが阿出川さんだった。今、ボードメーカーをやってる人達は、たいがいそこでアルバイトして、ボード作りの技術を得た。鎌倉でのモノ作りのキーマンは大島(兄)さん、乗り手で優秀だったのは長沼(一仁さん)。
材木座では平井さんが「DUKE」サーフショップをやって、1967~8年に「水沢ガラス」という会社が出資して「ウェストコーストサーフボード」というブランドが出来て・・・・・』
田沼社長のお話しは延々と続きますが後略とさせていただいて、材木座発祥の日本のサーフィン業界の黎明紀でありました。やがて1970年代、世界中がショートボード革命の波にのみ込まれてゆきました。・・・つづく
1968年に製作された国産サーフボード
オーナー Kazu 植村氏が、当時のミナミスポーツを通じてオーダーしたという。このボードには、リーシュコードを取り付ける仕組みは無い。デッキにはワックス替りに垂らしたというローソクに、その当時のワイキキの砂が閉じ込められていた。残念ながらスケッグは現存しない。